早くも秋ですねぇ。 のらりくらりの毎日ですが元気にがんばっております。(^^ゞ
天照大御神は卑弥呼である@読書
2016年02月15日 (月) | 編集 |
天照大御神は卑弥呼である天照大御神は卑弥呼である
安本美典(著)
(出版社) 心交社 (2009/12/20)
(ISBN) 9784778108687
(サイズ) 四六判
   02/13-図書館より借り出し

 日本人は論争が好きで、古代史もこの論争抜きでは、語れない。(^o^)わははは…
 邪馬台国をめぐる論争は国民的興味を呼んだし、天照大御神や神武天皇となると生々しい政治的課題でもある。しかしあまり熱くならずに、ロマンとして味わうのが大人と言うものだ。
 
 伝承文学を事実として扱うのは論外として、事実無根の作り事と考えては、大切な宝物を取りこぼす。昔の人が現代の政治情勢を考えて、文献として残したわけではないし、それなりの理由があって、当時の共有されるべき記憶として残したものだから、単なる職業作家の完全創作ではないはずなのだ。

 さて、この本を手に取ったのは、私の仮説に近いからである。歴史の素人が魏志倭人伝や古事記の事を知ると、印象に残りかつ同一人物ではないかと言う疑いを持つのは卑弥呼と天照大御神である。(^o^)わははは… 
 こういう馬鹿気た直観は軽視できない。歴史の中の、「同じ地域に残された特徴ある人物像」がなんとなく似ていれば、全く別の事柄であるほど世界は広くない。こういう直感を、具体的にあり得ない事象かどうか検討したのが、この本と言えよう。もちろん直感から出発して資料を集めるのだから、我田引水的になるのはやむを得ない。しかしまずは可能性である。結果としては、十分あり得る話としてまとまっている。これは楽しい。(^^ゞ

 最近の考古学の実地調査は具体的であり、大いに進歩した。三内丸山や吉野ケ里といった発見は、古代史の霧を払うものだが、それとともに伝承や史書の舞台も明らかになる。おおいに楽しみと言えよう。
鹿と温泉の関係(酸ヶ湯・那須・鹿教湯)
2015年07月04日 (土) | 編集 |
 さて、あなたは「酸ヶ湯」をどう読みますか。実は「すがゆ」ではなく、「すかゆ」なのである。パソコンの文字変換でも、「Sukayu」で変換される。これは「酸ヶ湯」は当て字で、もともとの呼び名は「鹿湯」だったからだそうである。青森弁では「すかゆ」なのである。

 温泉の起源にはこう書いてある。

酸ヶ湯の始まり
 ここ酸ヶ湯温泉は『およそ三百年前の貞享元年(1684)、横内(現青森市内)に住む狩人「長内 佐ヱ門四郎」が鹿をしとめそこない、その手負いの鹿を追って山へ入った。それから3日後に発見したが、傷を負っていたはずの鹿があっという間に岩山を駆け上がり逃げ去ってしまった。その俊敏さをみて不思議に思い、付近を探索したところ温泉が湧いているのを見つけた。その後、その温泉に薬効があることを知り「鹿の湯」と名づけ利用した』という由来があります。

 で、この話を聞いて思い出すのが、那須温泉の源泉「鹿の湯」の起源である。そこにはこう書いてある。
「狩野三郎行広という者が山狩の際に、射損じて逃げる鹿を追って山奥に入ると、鹿は傷ついた体を温泉で癒していました。そこで鹿によって発見された「鹿の湯」と名づけたと伝えられています。」

 更に思い出すのは、長野の鹿教湯温泉の起源も全く同じ話で、それ故「鹿に教えてもらった湯=鹿教湯」だという事である。

 なぜ、各地の温泉の起源に共通して、鹿が絡んでくるのだろうか。私が思うには縄文人が温泉ことを「すか」と呼んでいたのではないかと思うのだ。平地で農業を営む弥生人が進出する前、山地には縄文人が住んで、狩猟と採集の生活を行っていた。つまり日本人の山地の生活知識は縄文人から受け継いだ知識なのである。そして「すか」と呼ばれる温泉が、なぜ「すか」なのかを考えた時、「猟師と鹿」の話が創作され伝播したのではないだろうか。

 さて、さらに付け加えると福島県の栗駒山の北側に須川温泉と言うのがある。ここも「すがわ」ではなく、「すかわ」である。鹿の話は無いが、「すか」なのである。私の廻った温泉だけでもこんなに「すか」の話がある。この話題に今のところ学問的根拠はないが、機会があれば追及してみたい話題なのだ。(^^ゞ
中野ひかり座跡地
2013年10月13日 (日) | 編集 |
ひかり座あと地のビル

 この新しいビルが建っているのは、中野駅南口五差路に建っていた中野ひかり座の跡地である。
 ひかり座は昭和の色が濃厚のレトロ映画館で、駅前から南へ5分程の所に3年ほど前まで建っていた。だいぶ前にピンク映画専門になって、最後は小劇団の公演場所になっていたが、併設の古い市場と合わせて、どこから入って良いのかも判らぬ不気味な建物で、外周には小店が張り付いていたが営業していたのは移転前の有名店「佐世保バーガー」ぐらいだったかも知れない。

 この五差路は、昭和初期まで現在地の西側にあった旧中野駅の南下する駅前道路と、桃園川沿いに東西に走っている大久保通りの交差点に、現在の中野駅のガードをくぐる中野通が新しく作られて、いささか強引に割り込んだものである。
 もともとの道が桃園川の屈曲のために大きくカーブして方角がずれて巴形に交差しているところに、既存の道より広い中野通を、ひねりながらねじ込んでいるから、駅から南下すると4車線あった道がここで途切れて二車線で四散しているので、初めての人はどちらの方向へ進めばいいのか判らなくなる変則交差点である。
 今回の再開発では、光座の建物が交差点に突き出していた部分が、除去されていて、今後交差点が中野通を通過しやすくする形状で改良されるようだから、これで中野通もだいぶマシな道になるだろう。

 通称「中野通り」というのは、都道420号線の一部で、この道は品川区の鮫洲から、板橋区の仲宿をつなぐ長い道路である。しかし、実体は既存の道路や区画整理の道路をつないで一本にしたものであるから、あちらこちらに無理があって、このように手直しが行われて、つながりが良くなっていくらしい。(^o^)わははは・・・
川越まつりの山車
2012年10月26日 (金) | 編集 |
川越祭の山車 先週の日曜日は川越まつりに行ってきた。見所はたくさんの山車の巡行である。いま川越には29台もの山車がある。この山車にお囃子と踊り手をのせて、みんなで引っ張って賑やかに市内を巡るのだが、ただ、だらだらと廻るのではない。あちこちに作られた御神酒所や途中で出会った山車と、踊りと囃子でエールの交換をしながら、往くのである。御神酒所の方にも踊り手やお囃子が居て、返答の舞を見せる。つまりジャムセッションを行って互いに芸を見せ合うようだ。
 このため、山車は上部全体が、回転式になっていて、台車の向きを変えなくても、踊り手の乗った山車の正面が360度回転する。(^o^)わははは・・・ 交差点では三台ぐらい山車が出会ってジャムし、見物人もジャミングしてしまって、身動きが取れない大混雑になっている。

 この山車は、幅と長さはそんなに大きくはないのだが、高さは三段式になっていて、上部の人形(三階)や豪華な幕の張られた二階は1階に収納できる構造である。これもなかなか面白い。電線のない大通りでは、写真のように背が高くなっているが、横町にはいるときには、唐破風のあるお囃子が乗った一階だけの姿で、巡行するのである。
 また、ジャムセッションのときには、主役と脇役に別れるようで、脇で挨拶を受ける山車は、二階三階をたたんで受け手になり、交差点の真ん中を通過する山車は、高々と人形を掲げて周囲と挨拶の舞を交歓しなから進む。
 なにしろ町中にお囃子の楽隊が配置されて、つねに賑やかに演奏しているのだから、この祭はひときわ元気だ。(^o^)わははは・・・

 敗戦後の高度成長期に全国的な大企業が輩出するまでは、各地に土着の産業があり、生産の恵みは各地域に還元されていた。川越の祭文化も、蔵作りのまちなみも、江戸から明治にかけての、こういう地域経済の豊かさが、その地に文化として根付いたものであろう。原発や工場誘致では、そのときに一時的に金は落ちるが、地域に事業の決定権はなく、結局は地域の経済的に力にはならず。文化も育たないような気がする。
 「鶏口となるも牛後となるなかれ」という警句は現在も生きているようだ。裁量権を持たなければ、経済も文化もその地に根付かないのだ。
森将軍塚古墳@長野
2012年06月23日 (土) | 編集 |
 森将軍塚古墳は長野県千曲市にある長野県最大の古墳である。もう20年近く前のことになると思うが、新聞紙上で見かけてから、一度行きたいと思っていた。
 奈良や大阪の古墳は、古墳本来の形状ではない。古代天皇の墓と考えられることから、江戸時代末期に幕府によって「天皇崇拝」の姿勢を示すために、当時の美意識で形状が整えられ、明治になってからは国家神道推進のために「御神体的管理」がされてきた。
 考古学者の立ち入りは拒まれ、自由な研究はできないのである。

 しかし、ここ長野のような場所の古墳は天皇の古墳ではないので、余計な気を使うことなく、史実に基づいた研究も復元作業もできるのである。このあたりの古墳は将軍塚と呼ばれている。将軍塚というのは、当時の国の支配者の墓という意味であろう。国王と言う名前を遠慮した名称だ。(^o^)わははは・・・
 これが、平成4年に完成した森将軍塚古墳である。
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森将軍塚古墳の全景、後方は善光寺平

 全長100mの前方後円墳で、全面葺石で葺かれている。領土を見下ろす小高い尾根の上に設置され、長野市街が一望できる。少し高い後円部に石室があり墓になっている。
 歴史や文化は進歩すると思われているが、個々の文化を見ればそうではない。古墳も古墳時代前期の方が後期よりも巨大で石で葺かれて立派である。後期になると小さくなり土饅頭のようになるのだ。
 文化はある時、熱中的に進化するらしい。成熟期にはいると繊細ではあるが、ひとを驚かすような物ではなくなる。
 森将軍塚も、奈良や大阪の政権による巨大古墳の流行に対し、「こっちの方が優れているぞ」と言うことを証明するような意識を持って作られたのではないだろうか。

 塚の上に立って、良い気持ちになった後は、しなの鉄道屋代駅に向かって歩いた。駅の観光案内所では教えてくれなかったので、行きはタクシー1010円で麓の資料館まで来たのだが、駅へ直通で通じる道の見当は付いていた。下り道の途中から、丸いタンクの有る一里山の鞍部を通って、満照寺の墓地まで、平坦な道が続いている。墓地からは急坂を下れば駅の裏である。下ってみると下の入口は墓地の専用通路で鉄扉もあった。これでは観光案内所では教えてくれないはずだ。(^o^)わははは・・・

 後日のための案内地図
しなの鉄道 屋代駅から森将軍塚古墳への道
★右下が森将軍塚古墳 右上に森将軍塚古墳古墳館 左端にしなの鉄道屋代駅
曜日の起源
2012年04月26日 (木) | 編集 |
 現代人の生活で最も使われている繰り返しのサイクルは一週間であろう。
 曜日が判ればその日に自分が行うであろう行動がかなり細かく想起される人が多いはずだ。ゴミ出し・テレビ番組・定休日etc・・・。
 この週という概念はどこから来たのであろう。そして、なぜ日本語では日月火水木金土なのか。

 調べてみると、週という概念はメソポタミアの古代バビロニアで、生まれたらしい。ここでは太陰暦で月の満ち欠けで1ヶ月を定めていたが、30日ではワンサイクルが長すぎるので、これを4つに割って考えたのが週の起源である。
 使っているうちに月とは独立して、7日周期で独立して廻る日数の数え方になった。
 これが、エジプトに伝わって、天文学の概念と一緒になって、太陽と月と5惑星の「七曜」が各時間を支配して「1日を24時間とし、7日で1週間」という構成で考える太陽暦の暦ができたらしい。このエジプトの暦がユダヤ教やキリスト教の暦に引き継がれる。
 この暦は天体の動きをつぶさに予測できたので、暦に各地の星占いの内容が糾合されて、インドにも伝わりインド占星術に発展する。

 さて、8世紀の唐の高僧、不空金剛(父はインドのバラモン)が、皇帝の命によりインドから大量の文献を唐へ持ち帰り、中国語に翻訳した。このなかに「宿曜経」と呼ばれるインド占星術を詳しく記した文献があったのです。
 彼が翻訳した際、5惑星の名前は、五行思想による星の名前で翻訳された。五行思想とは古代中国に端を発する自然哲学の思想で、万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという説である。

 この最新の教典を当時入唐していた空海ら遣唐使が持ち帰り、朝廷が発行する具註暦にも7つの曜日が記載されるようになり、吉凶判断の道具として使われてきた。この具註暦に藤原道長が日記をつけたのが、『御堂関白記』であり、毎日の曜日が記載されているそうである。

 しかし、中国ではその後仏教が衰退し、宿曜経が一般化することはなかったようだ。日本でも、週の概念が庶民に一般化することはなかったが、その後も朝廷の暦には曜日が現在に至るまでしっかりと受け継がれてきた。

 さて、明治になって、急進的な欧米化を進める明治政府は、明治5年の年末、突然に従来の太陰暦を廃止し、欧米のグレゴリオ歴を採用する。この時、当然ながら欧米の暦に引き継がれていたエジプト以来の「七曜」が日本の庶民の生活に復活することになった。だから七曜の歴史は大変に古いが、日本人の生活が七曜で回り出したのは、最近のことであると言えよう。

 ちなみに、この太陽暦の突然の採用の理由は、公務員給与の削減にあったらしい。大隈重信の回顧録によれば、当時政府の財政は困窮しており、グレゴリオ暦に移行することにより、2日しかない明治5年12月の給料は支払われなかった。また、明治6年は旧暦だと、13ヶ月有るのだが、新暦により12ヶ月になった。これにより政府の財政は大いに助かることになったらしい。また、旧暦の習慣だと休業日が5日ごとにあり、節句の休み等も有るので、年間の約4割が休業日だったらしく、これを一気に50余日の日曜日だけに減ずる効果もあったそうである。
 昔から政府のやろうとすることはあまり違わないのであった。(^o^)わははは・・・
ムーランルージュ新宿座
2012年03月08日 (木) | 編集 |
 先日、従兄弟が亡くなって、「シマッタ!」と思ったことがある。この従兄弟の親父さんは、第二次世界大戦の前と後に新宿駅前にあった「ムーランルージュ」という小劇場で音楽監督と演出を手がけていた豪傑なのである。この劇場からは、駆け出し時代の森重久弥・由利徹・楠敏江といったコントの名優達や春日八郎らの歌手が在席し育っていった。その時代は私などは生まれたばかりであるから、何も知らないが、笹塚にあったおじさんの家は、確か暖炉などもある洋館で、何もない我が家と比べると、えらく怪しげな品物に満ちていた。
 この新宿のムーランルージュは、浅草ともちょっと違った娯楽の拠点で、西洋文化のエスプリに満ち、娯楽を求めて文士や名士が通い、今のAKB48のように大学生が踊り子達に声援を送る場所だったらしい。
 このおじさんのことは、私などはほとんど知らないが、亡くなった従兄弟は、その身近で育った訳であるから、いろいろ面白いことを見聞きしていたはずなのである。

ムーランルージュの灯は消えず さて、戦後のムーランルージュは、昭和26年(1951)に閉館したが、ここで育った人材は、その後のテレビ・ラジオや舞台芸術の世界にうつり、影響を広げてゆく。
 以前調べたときには、ムーランルージュの劇や音楽については、後年(1975)レコードが作られて、このCDになっていることが判った。そして曲目解説の中にはおじさんの芸名もあった。ラムール・リズムという曲の作詞作曲編曲の山本浩久(やまもと こうきゅう)である。この曲はムーランルージュの劇団歌のような曲で、皆に愛唱されていたようだ。

ネットの情報に寄れば、CDの解説には

 「ドラマとヴァラエティー・ショーの組合わせは、四十余年前のムーランが創作した公演形式である。これが現在の美空ひばり、三波春夫、江利チエミ公演に受け継がれている。思えば斬新な企画だったものである。ヴァラエティーという言葉自体も、ムーランが初めて使い出した言葉である。当時、「ヴァリエテ」というドイツ映画が、大ヒットしていて、それからヒントを得て、山本浩久氏が名付けたといわれている。」

 というバラエティの語源に関する一文があるらしい。

 この「ヴァリエテ」というのは「曲技団・サーカス」のことで、1925(大正14年)の映画である。この言葉を日本人に発音しやすい「バラエティ」という音に変えて、ムーランルージュでの出し物の名称にしたのが、ムーランルージュで音楽担当をしていたおじさんらしい。(@o@)ホウホウ・・・

 だとすれば、私が子供のころに見ていたテレビ番組、コントと歌で綴る「シャボン玉ホリデー」や「夢で会いましょう」などのバラェティ番組は、このムーランルージュでの出し物から、テレビに移植されたものなのかも知れない。そして、気が付かないうちにおじさんの薫陶を受けていたのかも知れない。(^o^)わははは・・・
官営八幡製鉄所の古レール
2012年01月03日 (火) | 編集 |
 西武新宿線の野方駅が新しくなって、南口に駅前広場が整備された。その一角に古レールを使った街灯が立っている。設置された説明板を見ると、これは取り壊された旧駅舎のホーム上屋に使われていたレールらしい。
IMG_0048-2.jpg 一番上の丸いマークは官営八幡製鉄所で作られたことを示している。丸の中心に点があり、4方向に突起のあるデザインは日本の日を表し、「日立」のマークと共通している。そこにスチールのSを組み合わせて日本製鉄を意味しているようだ。
 NOの次の60はポンド/ヤード表示であって30㎏/mの規格であることを意味している。Aはアメリカ土木学会規格の意味。1914は製造年、Ⅸは9月製造だそうだ。
 北九州の八幡製鉄所に高炉が設置されて火が入ったのが1901(明治34年)年である。早速レールの生産が始まったが、現存する国産レールは高尾駅のホームにある1902の刻印のものだそうである。1914(大正3年)頃はまだまだ生産が十分ではなく、海外のレールが大量に輸入されていたようで、北口に設置された同じものの刻印はベルギーのサンプルモビール社のマークが入っていた。
 この西武新宿線の東村山から高田馬場に至る線路が開通して、野方駅ができたときが、1927(昭和2年)であるから、それより古くから使われていた線路の鉄材なのだとおもうと、よく頑張っているなと思う。(^o^)わははは・・・
沼袋の地名由来を考える 5 池袋
2011年03月06日 (日) | 編集 |
 このところ、NHKでブラタモリという番組をやっている。どんなに都市開発が進もうと、どこかに露出する歴史の痕跡を、ブラリと散歩しながらタモリが発見していくという趣旨だ。町の中に尾根筋や川筋を探すなど、私が普段やっていることをタモリがやっているのだが、これが自分の姿を見るようで、一寸恥ずかしくて見ていられないところがある。(^o^)わははは・・・

 1月27日の放送では、池袋が対象になっていて、池袋の地名の由来が取り上げられていた。(^^ゞ

 以前、私は「沼袋の地名由来を考える 1」で以下のように書いた。

 西武新宿線に沼袋という小駅がある。私の最寄り駅なのだが、この「袋」という名称には昔から興味を持っていた。近くの池袋とは「袋」つながりで、何かあるのだろうか。調べてみると、袋というのは何かを入れると膨らむ訳で、何かが途中で膨らんでいる地形を「袋」と言うらしい。すると沼袋は「沼が膨らんでいる所」という訳で、地名解説では水が溜まって湿地が有ったからであろうということになっている。

 それ以来、気になっていたのは、池袋のほうの「袋」はどこにあったのかということだ。
 西口のメトロポリタンプラザの西側に元池袋史跡公園というのがあって、ここが地名発祥の地だという碑があるのは私も知っている。しかし、ここには確かに丸池という池があったのだが、実は雑司ヶ谷村の北部の水源地であり、池袋の地名発祥の地のはずがないと私は思っていた。
 タモリがここに来たので、オイオイ民放じゃあるまいし、そんな手軽な番組にするのかよと不安に思ったが、案の定タモリは納得せず、現在の駅前から北の方に遠く離れた本来の池袋村の中心である池袋本町へ移動した。今の池袋駅は昔の村はずれの台地の上なのだ(^o^)わははは・・・
 ここには私も好きな古い大きな商店街が残っている。さらにそこから川の跡の暗渠の上の道をたどって、タモリは北へ移動する。この川筋あたりが昔は多くの田があったあたりらしく、その下流には私の見覚えのある橋の欄干の痕跡が出てきた。

 これは、板橋区板橋一丁目2の「板橋区立谷端川緑道」である。ここが谷端川に池袋方面からの川が合流していた場所である。さらに「袋」には、川と川が合流している所という意味があると、豊島区立郷土資料館学芸員の秋山伸一さんから説明があった。
 ということで、意外にも一駅離れた埼京線の板橋駅の西側が、池袋の地名発祥の地ということになりました。(^o^)わははは・・・

 この谷端川というのは、板橋区大谷口の板橋高校あたりの千川上水からの分水を水源として、椎名町をとおり環状6号線を潜った後、6号線に沿って北上して板橋駅下を東進して、池袋駅のある台地を大きく取り囲むようにして流れている。この板橋駅のあたりは、池袋駅のある台地に谷端川が行く手を遮られていた場所で、地形的には東武線の車庫にかけて平坦な地形があるので、昔はここが湿地になっていて、雨が降ると大きな池が出来ていたのかも知れないと思った。

 この地形は「沼袋」が哲学堂のところで妙少寺川が先を絞られてよどみになっていた地形と酷似している。
 私の沼袋の場所推定とも内容的に合致していて、満足すべき内容だった。ここに記録しておこう。(^o^)わははは・・・

今日は吉祥寺から三鷹へ散歩
2010年06月17日 (木) | 編集 |
 今日は良い天気だと判っていたので、朝から奥多摩でもでかけたいと思っていたのだが、ついノンビリして出遅れてしまった。この間、御嶽山に登ったら、やはり身体の調子が良いのだ。
 それでは近くというところで、井の頭公園の周りを回ることにして、昼に吉祥寺に出て、時計回りに緑のあるところを探して歩き始めた。東南へ玉川上水まで歩いて、岸辺を遡り「三鷹の森ジブリ美術館」まで歩く。そこから三鷹駅へ歩き出して、大正末期の住宅を一軒見学した。
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 「三鷹市山本有三記念館」である。庭園無料、入館300円。
 山本有三が昭和11年から昭和21年まで、米軍の将校用住宅の接収で、いきなり追い出されるまで住んだ家だ。
 建て主は、海外に留学し、教師でもあり文学の翻訳者でもあり、海外へ雄飛した実業家でもある人物が、自宅として建てたものである。海外経験の長い施主が建てたものらしく海外の個人住宅の味わいどころが満載であった。
 この住宅は、昭和26年には接収は解除になったのだが、山本有三の自宅であるという価値が理解されていたのであろう。そのご国から都、そして三鷹市と所有者が変わっていく。そして平成8年から現在の記念館として公開された。
 全体は洋館だが、二階の真ん中のテラスのある部屋は、和室である。窓枠や屋根も何となく和風を感じさせる。
 北側の玄関脇には、暖炉を中心にした天井の低い小さな暖炉部屋があり、夜更けに家族の集まる北国の炉端の生活を思わせる。南にはサンルームや明るいテラスがあり、南方的な戸外での食事も楽しそうだ。
 総じて守られている安心感のある建物である。

 この建物の前は、玉川上水の太宰治が心中事件を起こし亡くなったときに飛び込んだ場所である。現在は景観保全のためにわずかな水が流されているというところで、とても死ねるところではないが、当時は東京の水道の主力として、満杯の水が流れていたのであろう。行き着く先は今は新宿副都心になった淀橋浄水場である。子供の頃遠足で行ったが、あのころは広大な浄水池に水が満々と蓄えられていたな。(^o^)わははは・・・

 三鷹まで、歩いて3時の昼食を摂り、帰宅。