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江古田原沼袋の戦い
2010年01月19日 (火) "
 歴史のある土地を歩いて、資料を読み込むと、あれこれ想像が膨らんで、にわか郷土史家になってしまう。資料がないほど想像の余地が多い。(^^ゞ
 江古田原沼袋の戦いを私なりに想像してみよう。
●まえおき
 川越城の家老職太田道灌は、敵対する千葉方面への守りを固めるために、江戸城、板橋赤塚城などを建設したが、これはこの土地の豪族豊島氏を脅かすものとなり、地元豪族の豊島氏は太田道灌に離反した。豊島氏の城は石神井川沿いに石神井城(練馬区石神井公園内)・豊島城(練馬区豊島園遊園地内)・板橋城(板橋区東新町付近)・平塚城(北区飛鳥山に連なる崖沿い)にあり、旧川越街道で繋がる太田道灌側の各城の戦略的生命線とクロスしてそれを分断するものとなった。このため、太田道灌にとって、豊島氏の鎮圧は急務となっていた。
●きっかけ
 4月13日太田道灌は江戸城を出て、北区の平塚城を攻めた、少人数でゲリラ的な攻撃であったが、矢を射掛け、城下を焼き払ったという。城下を焼き払えば当時のことであるから、遠くの石神井城でも、その火の手は観測できたのでは無かろうか。
 豊島氏は、いよいよ来たかと言う事で、臨戦態勢に入り、道灌軍を挟み撃ちにすべく平塚城の救援に向かおうとする。そこへ太田道灌軍は少人数との報告が入ってきた。
 敵将が少人数で戦っているなら、一気に江戸城を陥落させる好機と判断した豊島軍は、総出撃を掛ける。
●戦いの様子
 石神井城から、江戸城に向かうには、鷺宮・沼袋・目白と進む、現在の新青梅街道沿いの古道が、進軍コースになるだろう。これに豊島城から合流するには、新井薬師道と呼ばれる古道があり、沼袋の湿地で新青梅街道と合流する。関東の昔の道は丘陵の高い平坦な場所を真っ直ぐに通る。たまの水場は良い休み場所だ。
 太田道灌はこれに目を付けた。少人数の戦力で、数倍の敵を倒すには、奇襲戦法しかない。相手を驚かして混乱に陥れるか、地の利を知り尽くした場所で相手を分断し、一気に本陣を突くのがセオリーである。
 太田道灌は、足軽戦法を得意としたという。どのような戦法かは伝わっていないが、当時の戦いは、騎馬武者の一騎打ちである。戦国時代のような足軽雑兵による集団戦ではない。私が思うには、足軽とは文字通り「足の軽い兵」で防具や武器をあまり持たず、迅速に動き回って、諜報・伝令などを行っていたのではないか。道灌はこの足軽で情報を掴むと共に、一人の武者に大勢の足軽で対応させたり、味方の隠れている所に相手を誘い込んで不意打ちを食わせる。そんな一騎打ちではない戦い方を足軽に指導していたのでは無かろうか。
 ともかく、4月14日、敵はまだ先だと思って油断していた豊島軍に、江戸城へ戻ったと思わせておいて、実際には江戸城から援軍を増派してこの地で待ちかまえていた太田道灌軍は、何らかの奇襲を駆けたに違いない。もちろん、この沼袋の地の複雑な地形を研究し、十分に作戦を練って全軍に徹底してあったことだろう。
 先の鎌倉大草紙によれば、50騎の軍で200騎を相手にし、敵150騎を討ち取る大戦果を上げたという。まともに正面から戦ったのではこのような戦果は上げられないのではないか。
●最後に
 関東大震災で、多くの人が移り住み、区画整理等で整地されるまで、哲学堂のある和田山から、環七方面まで、新青梅街道沿いには、あちこちに塚があり、それを崩すと、人骨や武具が出たと言う。それはこの戦いで放置された武者の骸を弔ったものだと言われていたそうである。
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