暑くなってきましたね。 のらりくらりの毎日ですが元気にがんばっております。(^^ゞ
唯物論は実践が難しい(^^ゞ
2012年04月12日 (木) | 編集 |
マルクスは生きている 先日、「マルクスは生きている」という不破哲三氏の新書を図書館で借りて読んだ。ソビエト社会主義連邦共和国の崩壊をもって、マルクスは死んだという意見についての、反論の書ということになるのかも知れないが、基本的には、現在社会がマルクスの考察した思想に基づいて進歩していることを具体的に示した、マルクス主義の入門書と言うところであろう。読んでみると改めて現在社会の構成員である我々自身が、マルクスの示した史的唯物論の観点で、現在を生きていることに、納得である。マルクスの思想は、既に我々の血肉になっているのだ。
 しかし、それにも関わらず、マルクスの思想を実践することは難しい。世の中を正しく見て、その原因と結果を理解すればよいのだが、そもそも世の中を正しく見ることそのものが、難しいのだ。(^o^)わははは・・・
 人間は、自分の欲得で、世の中を見てしまうから、見方そのものに間違いを含んでいる。かなりの学習と修養がないと、マルクスの理論を正しく実践できない。(^^ゞ
 この本の中でも、マルクス主義を唱えながら、マルクスとは縁のない理屈を持ち出す「マルクス主義者」たちに、マルクスが手を焼いていたことが述べられているが、世の中というものはそういうものだろう。

 さて、宗教というものは、基本的に観念論である。頭の中で理想の世界を作り、それにしたがって現世を理解しようとする。キリスト教にしろ、仏教にしろ、何千年の間に蓄えられた壮大な観念の建築物は、調べていて飽きない。実に面白い。しかし、仏教に関して言えば、その原初的な部分は、実にその時代の社会を唯物論的に捕らえていると思う。
 例えば、ブッダはほとんど原始共産制の社会の人だと思うが、その世界での苦悩を克服する事については、その時代での極めて実践的な思想を組み立てているのだ。ブッダは欲得を捨てて、あるがままの社会を見れば、悟りへ向かって一段進めると説き、解脱への道を一つ一つ実践的に説いている。そして、死に際しては、新たな指導者を求めるのではなく、一人一人が自らを頼りとして解脱に進めとしている。さらに自分の教えは、解脱のための教えであるから、解脱した後は、これを捨てて、みずから進路を切り開くべきであり、その力も附いているはずだと述べているようにも思う。
 これは、仏教以外の世界でも通用する見事な研究のスタンスであり、唯物論者こそ学ばねばならぬ方法論ではないかと感ずるのだ。(^o^)わははは・・・

 しかし、そういう科学的な思想も、組織ができて大きくなるにしたがって、どんどん観念論の塊になっていく。理屈が現実を駆逐するのだ。仏教もブッダの死後壮大な観念論の世界を作ることになった。そこにはありとあらゆる科学と文化の知識が総合されるから、これを取り入れることが即ち文明化であるというようなことになる。
 聖徳太子が仏教を日本に取り入れたのは、そうやってガンダーラに集められた世界の知識が東の果てにたどり着いたときだったのだ。

 その後も、日本国内で様々に観念論が付着して巨大化したから、その世界は知れば知るほど、実に興味深いという訳だ。(^o^)わははは・・・

  A photo of the day
我が家の菩提寺
 LumixGF2 14mm f/11 1/60s iso125
 我が家の菩提寺も春真っ盛り、問前の赤い紅葉に、緑の柳、門の奥には山桜の花。あらためて見ると実に美しい。観念論には過去の文化が詰まっているのだ。
 月命日にお参りしているのだが、雨が降ったり風が吹いたりで、毎回遅れ気味だ。予定は常に遅れるものと理解しておこう。(^^ゞ
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