暑くなってきましたね。 のらりくらりの毎日ですが元気にがんばっております。(^^ゞ
靖国思想の源流
2014年05月19日 (月) .
靖国神社について語られることは多いが、その源流について語られることは少ないので、ここで述べておきたいと思う。
靖国神社は、明治12年明治天皇によって名付けられ官幣神社として設立された。
それ以前は、明治2年に設立された東京招魂社と言う明治維新の官軍の戦死者慰霊施設であった。
この「招魂」というあまり聞かない名称が気になる人も居るであろう。これは中国の考え方なのである。
日本の神道では死者は黄泉の国へ行く、そこは地下であり穢れの場所である。それ故、けがれを嫌う日本の神道では、もともと葬礼の儀式がない。葬儀は後から入ってきた仏教に任されていたのである。神道では死者への祈りは「鎮魂」であって決して招いてはいけない、それは悪霊を呼ぶ事であり、鬼道・呪術に属する。

四谷怪談のお岩さんのセリフに「魂魄(こんぱく)この世に止まりて」というセリフがある。魂とは人間の精神の霊で、魄は肉体の霊であって、魂は天に魄は地下に帰るとされている。これは中国の儒教の死者に対する考えであって、上の台詞はお岩さんの「この世に残って祟ってやる」という宣言である。
中国では人が死ぬと魂が残ると考えていたが、それは天に帰ってしまってだんだん弱くなるのである。その人の霊力を地上にとどめるためには、招魂の儀式をして地上の依代にその魂を集めることができると考えていた。実はこれが仏壇の位牌(いはい)の起源である。江戸時代は儒教の朱子学が学問の基本だったので。武士はこの「魂」を信じていた。

この考えに基づいて、長州藩の高杉晋作らは、正規軍人である武士ではない農民・町民からなる軍隊である奇兵隊を組織した時、戦死者を祀る施設として招魂場を設け、尊王攘夷の戦いで死んだものはこの招魂場に集まり忠魂として称えられるとした。
この生死観が歌「同期の桜」にある思想「同じ花なら散るのは覚悟、見事散りましょ国のためのため」という思想となったのである。
この思想は、木戸孝允・大村益次郎等に引き継がれて、官軍の死者にたいする礼となって、東京招魂社に引き継がれていった。のちに忠魂は英霊となり、さらに軍神へとエスカレートする。

靖国神社は東京にしかなかったので、日清日露戦争の戦死者を祀るための私設・公設の招魂社が全国各地に広がって行く。そしてやや収拾がつかない乱立状態になったので。これらの招魂社の統合が検討され、県もしくは軍の配置に合わせて、靖国神社の分社としての護国神社がつくられていった。
靖国神社と護国神社は、巨大な軍と戦死者の家族を取り込んで天皇中心の軍国主義思想の砦となったのである。

以上、靖国神社の思想的源流が、幕末長州藩の尊王攘夷派と背景の中国儒教朱子学であることを述べ、戦前の日本が、膨大な戦死者の遺族の哀悼の精神を利用して、天皇を頂点とした軍国主義思想=靖国神社をつくりあげたプロセスを解説した。

幕末の日本は、現在のイスラム圏小国のようなもので、欧米列強の侵略に怯えていて、その中でも長州藩はクーデターで天皇を拉致しようとしたり(禁門の変)、唯一外国船打ち払い令に呼応して返り討ちに会う (下関戦争)など、とんでもないハネアガリ分子だったのである。しかし、その敗北の経験に学んで当面の方針を現実的に変更し、明治維新の中核部隊となった。しかし、その尊王攘夷精神は靖国派の中に面々として受け継がれてゆく。安倍晋三も山口県の血筋で、どうにも頭でっかちである。(^o^)わははは…
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